国土崩壊 -「土堤原則」の大罪- (1)

自然の営みと自然災害

積み重ねてきた人類の安全に対する基盤づくり

 国民は有史以来、安全で安心して生活できる基盤を造り続けてきた。防災に対する政策を重視し、英知を集めて技術の向上を図り、安全で文化的な生活ができるよう努めてきた。その努力の反面で自然の猛威や威力には力が及ばず、「造っては壊され、壊れては造り」を当たり前のように受け入れてきた。

 自然災害の種類は多く、それぞれに特徴があり、一律的な防災計画では立ち行かないが、災害の種類によって対策の要点を絞ることができる。被災の大きな自然災害を分類すると、①地震 ②津波 ③洪水 ④台風 ⑤火山噴火に大別することができる。これらの自然の脅威は規模こそ違え、何億年何千万年前から変わることなく繰り返し襲ってきている。人間にそれを事前に制止することは不可能である。

 しかし、地球上の覇者である人間が、繰り返し発生する災害の一定のメカニズムを掴み、それを「迎え入れる構造」や「立ち向かう技術」、また「かわす技」を確立し、人命と国土を守り安全安心を担保することは可能だ。科学は秒進分歩で進化発展している。その時代時代に即した機材や技術を駆使し、最善を尽くすことが地球を支配している我々人類の知恵であり、務めであり、責任である。人類は時代と共に進化している。同時に進化してきた筈の防災技術を自然界に試され、実証されているのである。自然災害を敵視し逃げていては未来永劫、安全安心は得られない。そして我々には地球上の覇者としての資格もない。

自然の営みと自然災害の本質

 繰り返される自然災害は、本来地球が営んでいる自働および自然活動である。現在の地球の覇者である人間や地球上の生物は、皆その自然活動によって生かされている。水の恵みをはじめ四季の恩恵を受け、豊かな自然の恵みを享受しながら動植物が育ち、人間は生活の向上を図っている。その日常の恵みの反面で人間生活を脅かす自然のエネルギーの放出がある。それを人間は自然災害だと対立的に捉えるが、地球を基盤として生活をしている人間が地球自体の営みについて文句を言ったり、苦言を呈するものではない。また、地球を自由にコントロールできるものでもない。人間をはじめ地球上に住む全ての動植物は、自然の営みと同調し共存して生きていく定めとなっているのである。

 自然の放出するエネルギーの場所、時期、規模を正確に特定することはできないが、予測の精度を上げることは可能であるし、それが地球上の覇者である人間の知恵であり進化の力である。自然災害とは何か。自然の営みが放出したエネルギーで人間が造った構造物が被害を受けて、日常の生活が脅かされた時、「自然災害」だと役所やマスコミが発表する。いくら豪雨があっても浸水がなかった、堤防が破堤せず構造物に被害がなかった、人やモノが無事だった場合は自然災害があったとは言わない。故に防災構造物が本来の目的を果たし、人やモノを守り切れば、自然災害はなくなるのである。

自然界と人間社会

 地球上に住む全ての生物の中で、防災施設を自前で構えているのは人間だけである。なぜ人間だけが防災施設を設けるのか。それは人間がマイナス要素をプラスに替える知恵と能力を持っているからである。危険な場所でも防災施設を造ってその危険を払拭し、そこに文化を根付かせることができるからである。他の動植物は自然界に逆らわず自らの住める場所を見つけてそこを住家としている。また自然の地形や環境に自らを順応させて生存している。一方、人間の自由度と自然界の営みは一致していない。利便性を優先して低地に住めば浸水し、安全性を重視して高地に住めば日常生活が不便になる。そこで人間は自然界の構造や営みに逆らって、地球の形状を変化させ、防災施設を造ることで自然をコントロールしてきたのである。

 地球上に降る雨は、水の持つ性質によって高地から低地へと流れる。地形に倣って集合しながら増量し海に至る。全く自然の法則どおりの営みであって、そのメカニズムは誰の指図も受けない。自然界は果てしなく時間を掛けて山岳を穿(うが)ち、渓谷を創り、三角州の大平野を造りながら大海に注いでいる。地球誕生以来、自然界の営みが延々と時間をかけて自由に創り上げてきた地球の造形に人間がメスを入れ、原型の自然環境を壊して、人間主体の有益性に変えているのである。地球には多くの生物が生息している。その昔は恐竜が支配していた時代もあるが、今はたまたま人間が地球上の覇者である。地球上の覇者である人間が、自分の有益性の為に自然環境を壊し、人工的に河川を造り、ダムを造り、住宅地を造り、農地を造り、工場用地を造って人間主体の生活をしている。

 こうして一方的に人間が生活の基盤を造り、自然を制御しようとしている中、地球の覇者である筈の人間側が自然の起こすエネルギー、自然活動にいつも負けているとは全く不甲斐ない限りである。自然環境は短時間では変化せず、時間を掛けて同じ現象を繰り返している。それに対して人間は、自然の営みと比較すれば超短期間で人工的に施設を造っておいて、その施設がいとも簡単に自然活動に負け続けているとは全く無策であり知恵の無いことだということである。

自然災害の激甚化と予見

 自然災害の発生は、人間が直接指示を出し操作して起こすものではない。しかし、人間の果てしない欲望や節度の無い行為が「地球温暖化」を引き起し、災害の原因に繋げていることは間違いない。地球側に立ってみると、これだけ安定した美しい環境を提供しているのに、あまりにも節操のない自分勝手な我儘を続ける人間どもに憤慨し、そのお仕置きと教訓として自然災害を送り出しているのではないかとも思える。

 自然災害にはそれぞれに種類や規模があって、地球上の生物に多大な影響を与えてきた。古人は後世の為に何らかの形でその時の記録と対応の歴史を残してくれている。それは同じ災害が繰り返されることを後世に認識させるための古人の知恵である。有史以来、天変地異が繰り返されてきたが、今も昔も変わらないのが一年を通じて頻繁に繰り返されている降雨災害である。

 水の持つ性質によって、高きより低きに流れて地球の表面を穿ち自然に川ができた。降雨量によって河川の下流は大きく左右に移動し、この暴れ川の流量調節さえも自動で行っていた。しかしその自然の作用に人間が手を加え、暴れ川を固定するために造ったのが堤防である。それが「土堤」の始まりであり、人力でできた簡易な盛土であった。盛土は高さも低く集積水が増量するとすぐに越水し、その時には堤外面も増水しているので越水と堤外面とがすぐに同調して同一水面を造り危険なエネルギーに変わることはなかった。故に昔から堤防は毎年のように越水し氾濫していたが、現在のような被害はなかった。

 また、河川の下流域は浸水地として農業用地や蓮畑として確保し、越水を前提にした地域開発がなされていた。しかし、高度成長期に入り、浸水地域である低い土地が安価であることに目を付けて宅地開発が一気に進んだ。その結果、遊水地域がなくなり周囲の堤防も嵩上げされ、現在の無謀ともいえる無計画極まりない都市河川ができ上がってしまった。

 古人は金を掛けずに河川と共生していたが、時代が変わり、河川の本質、河川の役割、河川のあるべき姿、また想定される河川の未来を読まずして無計画に今の都市ができ上がってしまった。さらにでき上がった都市は一面舗装され、工場ができれば地下水を汲み上げて地盤沈下が起こる、元々低地である所に浸透水も無くなり更に地盤沈下が続いている。

 また、山間部に行けば山裾は山と山が重なり沢になっている。その沢の下端を宅地造成して住宅を建てている。沢は山の頂上に向かって標高を上げていき、その起点は頂上の分水嶺まで登るのである。その沢からそびえる山脈に降った雨水を全て下流に流す仕組みを自然が何万年も掛けて造り上げてきたのである。その自然の仕組みの最下流域に宅地を造成し生活するのは無謀である。降雨災害の後、上空から撮影した現況写真を見ると必ず沢の部分が被害を受けて流出している。自然の放出エネルギーは、環境破壊に準じてその規模も大きくなる傾向にある。現在に生きる我々がこれらのメカニズムを理解し、予測の正確性を上げて先手を打たねば、後世にと古人が残してくれた過去の記録や対応の歴史は無駄で意味のないものになってしまう。

■ 盛土による一般的な河川堤防

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