国土崩壊 -「土堤原則」の大罪- (2)

責任構造物としての防災施設の使命

責任構造物

 防災に関わる構造物は全て重要な責務を負っている。故に防災構造物は「責任構造物」である。国民の拠出金でできた国民共有の財産でもある。例えば、河川堤防や海岸防潮堤等は、水や波を制御するために構築するのであって重要度は大きい。その役割は、川の水が豪雨によって増水した時、あるいは津波等で波が高まった時に国土・国益を守るために働く、正に責任構造物である。その責任構造物は普段の日常には何の役目も無く、多くの金を食い大面積と大きな図体をさらして居座っている邪魔物である。洪水が起こり、また高波に襲われた時が肝心の出番であり、本領を発揮し責任を果たさなくてはならない。ここで使命を果たさなければ本当に無用の長物であるが、それが既存の構造物は肝心の役目を果たすべき時に崩壊してしまう。これでは何のための構造物か、何が目的で構築したのか責任構造物の真価が問われる。責任構造物の崩壊が甚大な災害を引き起こし、多くの人間を殺し、財産を消失させているのである。

 既存の防災構造物が本当に責任構造物としての役割を果たす材料で出来ているのか、本当に責任の持てる科学構造をしているのか、全権を掌握している関係官庁がまずもって検証しなくてはならない。如何なる場合でも、災害に対抗する最前線は国の行政機関である。国の造った責任構造物である防災構造物が崩壊することは重大なことであり、はっきりとした崩壊の理由を挙げ責任の所在を明らかにしなくてはならない。「やったことの無いことはやらない、使ったことの無いものは使わない、前例が無いから受け付けない」という「前例主義」を踏襲していては、納税者である国民は、壊れる前提のものに大金を拠出するだけで、安全は永遠に享受できない。

 有史以来の災害の記録を基に、最先端の科学技術を駆使して防ぎ切れないものは仕方がないが、想定ができる時代であり、また、想定をしなくてはならない科学技術の時代にあって「想定外」とは断じて言えないし、言ってはならない。また、科学技術は秒進分歩で発展進化している。防災に関わる内容は人の命が掛かっている、最先端の技術をいち早く取り入れて対抗しなくてはならない。「建設は日々新たなり」の所以である。

 人命と財産を守る最重要課題である国土防災にこそ最新の科学技術を取り入れ、今の時代の最新素材と最新工法を駆使した責任構造物を造ることが、国民への責任であり信頼である。防災構造物は国民共有の財産として蓄積していくべきものであって、いくらコストが高くても壊れないものを造ることが大前提である。科学原理に適合し実証済みの強固な防衛施設が年々増強されて延長していく、これが国民の安全と安心を守る国民の財産である。そして災害を繰り返さないことにより災害復旧費も激減し、大きな減税にもつながるのである。

繰り返して起こる河川災害

 降雨量は、短時間危険雨量でもせいぜい100~200ミリであり足首までの水嵩だ。一日の雨量が過去最大だ、と騒いでいるが500~600ミリであって大人の脛(すね)の高さである。この降雨の集積場所が河川である。降雨面積と地形、流入場所、河川の水量収容容積、高低差、屈曲角などで河川の性能が決まるが、これらは全て構築前に決めるべき設計事項である。

 毎年のように起こっている河川による災害は、単純に低きに流れる水の性質を制御することができず、大災害を繰り返しているのである。この原因は河川そのものの性能に帰するところが大きいが、根本的な原因は「堤防の構造」にある。堤防の決壊、崩壊の主要因として次の三つを挙げることができる。

① 越水破堤
河川に集積した水量が容積限界をオーバーして堤体の外に溢れ落ちる。その越流水が堤体の外側面を洗い流して堤体を削り取り、拡大して堤体を脆弱化させる、その結果、堤体が内水圧に耐えられなくなって破堤する。

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② 浸透破堤
集積水量が増して内水圧が高まると、堤体を構成している盛土の粗粒部分の間隙に浸透圧がかかり、水が浸み込んでいく。また「蟻の一穴」と言われる虫や動物などが開けた穴が外側面を貫通した時、それが水道(水みち)となって徐々に拡大し、堤体の破堤に至る。

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③ 浸食破堤
集積水が増大すると流速が早まり、それに伴い土砂や玉石、流木等の混合比が高まって流水の質量が上がりエネルギーが増大する。その大きなエネルギーを持った濁流が河川内側面を破壊して堤体を浸食し破堤に至る。

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 どんな降雨に見舞われても堤防が決壊しなければ大災害には至らない、そのために堤防は「責任構造物」として存在しているのである。壊れるものを造るから逃げる、という安易な方に傾き、逃げるからいつまで経っても解決には至らないのである。防災の専門家が言う災害のメカニズムや、自然界が異常だといくら文句を言っても災害は繰り返されているのだ。それより、自然災害の威力に勝てる強固な防災施設を造ることが解決の道である。自然災害を防ぐのは、防災の学者や専門家ではない。「頑強な防災施設を造る専門家」が主役でなくてはならない。

河川の役割

 「水は高きより低きに流れる」、「海は水を辞せず」、「水は低きに流れて海に至る」、「水を制する者は国を制する」と昔から言われ、水の性質や役割、威力は周知のところである。海は流れ入るものを拒まない。流木でも家屋の残骸でも車でも家電でも黴(ばい)菌でも放射能でも何でも受け入れる。どのような大雨でも記録的な豪雨でも海はそれを受け入れている。海が受け入れを拒んだが故に洪水を引き起こした、ということは未だない。

 河川の役割は、海に流入する河床の高低差と集積面積に対する収容容積である。降雨面から集まった集積水が海に流入するメカニズムが物理的にバランス良く整っていないと河川の役割は果たせない。特に高低差に関しては、「海抜」を終点基準とし、起点からエレベーションを取り、高地があれば掘り下げて流路を造り、人の住む生活基盤の上を流れる「天井川」を造らないことが重要である。

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 堤防の構築に当たって古人は、近くの土を人力で掘り、それを人力で盛り上げて成型して完成に至った、故に堤体の形状は三角錐の形をしている。またその昔、堤体を造る材料として手軽に入手できるものは「土砂」しか無かったので、土砂を盛り上げていくと必然的に今の堤防の原型となったのであるが、おそらく紀元前の時代であろう。

 この土を盛り上げて造られた堤体を行政は河川堤防の標準形状としてきた。堤防と言えば土堤でなければならず、これを「土堤原則」として政令で定め、その機能を「安全の守り神」と妄信してきた。言わば「土堤ラバー」である。特に河川や海岸堤の責任を負う行政のトップクラスの者が「堤防の構造とは土堤」であると断言し、その補強工事の際に土堤に物を入れることすら頑なに拒んできた。そして次々と堤体の嵩上げをし、天井川の規模を拡大してきた。天井川の拡大は大きな事故になる要因を増幅させている。

 河川の定義形は、上述の通り、海抜に向かって流れるエレベーションをつくりそれに沿って河床を設定し、天井川にしないことが原則である。現在では、河川を掘り下げる施工技術は全く問題ない。河川の容積を増やし流速を速めるための新規技術の導入が急務である。

 現存する堤防を安全の象徴としてきた土堤原則は、現実に自然の洗礼を受けて次々と崩壊している。これは全て科学で解明できる内容であり、不思議でも奇怪な現象でも想定外でもない。堤体崩壊の原因は、指導者の科学的解明への遅れと無知である。また、先進技術を取り入れない行政の古い体質である前例主義の重大な誤りが生んだ結果である。

土堤原則の大罪

 河川法に基づき制定された河川管理施設等構造令(政令)第19条に「堤防は盛土により築造するものとする」とある。これが今の時代のものである。その理由は、①材料の入手が容易である、②構造物としての劣化が起きない、③地震によって被災しても復旧が容易である。このような単純な利点を挙げているが、肝心な堤防の骨子である「堤防の本質は国民の命と財産を守る絶対に壊れてはいけない責任構造物である」という主題が抜け落ちている。

 世界の技術は秒進分歩である。その「技術の発展進歩」を置き去りにして紀元前のやり方を法律で固定するとは何事か、科学技術の進歩を法律で止めれば暗黒と悲劇の時代がいつまでも続くことになる。堤防という国民の命と財産を守る一番大切な責任構造物を造るに際して、「材料の調達がしやすく劣化が起きないから、壊れた堤防を直しやすいから“土堤”とする」、この様な単純な理由で、材料と構造と造り方を「政令」で決めている。この政令を決めた行政の責任は極めて重大であるが、この様な単純な内容でできた政令を何の疑問もなく延々と踏襲してきた政治家や行政関係者の無知と無責任による政策踏襲は絶対に許しがたい大罪である。

 この学習能力の無さによって毎年毎年同じ災害を繰り返し、多くの人命と蓄積財産が流出している。前例主義を踏襲することの恐ろしさになぜ行政関係者は気付かないのだろうか。国民の命と財産を守る大切な責任構造物である堤防こそ、「世界の最先端の素材と施工技術をもって構築すること」と政令で決めるべきである。「建設は日々新たなり」の所以でもある。

 今の時代にこのような紀元前のやり方を法制化して頑なに守っていることの不合理に、数十万・数百万人いる行政や政治家、専門家等の関係者の誰か一人でも気が付く者はいないのか。日本国は決して防災先進国ではない。過去に300兆円以上の資金を注ぎ込んでいるが、防災構造物の積み立て貯金にはなっていない。造っては壊れ、壊れては造りを繰り返していて、堤防の本分である壊れない粘る構造体を造っておらず、昔から先輩がやってきたことの踏襲に固執する役人の古い体質が、毎年死者を出し国民に大損害と不安と恐怖を与え続けているのである。

 防災構造物を代表する河川堤防の「土堤」は、古人が現場近くの土砂を掘って積み上げた土饅頭を三角錐型に成形した断面を構造物の原形としている。この土堤での防御の対抗方法は、積水の力は堤体表面の雑草で受け、堤体に掛かる総力は堤体全体の重量で防御する構造である。構造物を地球の上に載せたフーチング構造であって、延々と続く長大構造物であるが、延長方向に絡み合い結び合って引っ張り合う一体構造機構ではなく、地球上に巻き寿司を伸ばして置いてあるような脆弱な構造体である。こうした構造を科学的に見ると、自然界の大きな威力を持った災害力に対抗するに足る原理的な機構を最初から備えていない。

 重要な構造物を構成している材料を分析すると、土堤を構成しているのは「土砂」と「雑草」であって、地震波等の繰り返し起こる振幅運動や衝撃に対しての抵抗力は弱く、地震時に地震波を受けると、土堤を構成している土砂は液状化して沈下し、原型を無くしてしまう。続いて水の攻撃を受けると、間隙水圧が上がり、素粒子間の粘着力が奪われて崩れてしまう。いずれも長大構造物の形状を保つことは原理的にできない。また、フーチング構造の最大の弱点は、構造物を地球の上に載せている構造であるため、激流で底面が浸食されるか、壁体の裏側に水が回るか、水が壁体を貫通すると簡単に倒壊してしまう構造であり、責任構造物に求められる「粘る」ことができない。

 土堤を原則とし、フーチング構造でできた既存の堤防や防潮堤は、構造体を形成している重要な原材料が、目的とする責任構造物には適合しておらず、構造物自体も地球の上に載せただけの長大構造物で、正に「砂上の楼閣」である。安定を求め、繰り返しの粘りを本分とし、絶対に崩壊してはならない責任構造物として使命を果たす原理を最初から持っていない。国民が信頼の絆とし、安全安心の砦としている既存の河川堤防や防潮堤は、科学的にも原理原則からしても信頼のおける構造物ではないのである。

 古人の考え出した昔の土堤河川は規模が小さく、堤の高さも低いものであったので、河川内部のエネルギーが小さい時に堤防全体から水が溢れ、溢れた水の水位が、河川の外水面とすぐに同一化し一面になるので堤防の決壊には至らなかった。昔は河川決壊の大事故などほとんどなかったが、「土堤ラバー達」は、そうした土堤の簡易さの原理を拡大解釈して、土饅頭でできた土堤が堤防の原則だと錯誤し、同じ材質の土砂を高く積み上げ同じ形状のものをいつまでも踏襲して拡大し、「天井川」にしてしまった。天井川を流れる水位が上昇し頂点に達すると、河川内部のエネルギーはダイナマイト何百トン何千トン分ものエネルギーに増幅されている、その強大なエネルギーに土堤が耐えられる筈がない、あまりにも非科学的で前例主義が暴走している結果が、年々同じ災害を繰り返し、尊い人命を失い、蓄積財産を霧散させているのである。今回の台風は大きかった、強かったと全国で騒いでいるが、本当に台風によって被災した部分は小さく、大災害のほとんどは堤防の決壊によるものである。役所が私たちを守ってくれている、命が有って良かったと一般市民がインタビューを受けているが、そうではない。おそらく紀元前から存在するであろう土堤を、今の時代に法律化し政令で土堤原則として頑なに守っている行政の古さの責任であることは明白である。今までに関わった行政責任者の前例主義と正義感行政に終止符を打ち、科学で分析した現実を国民の手に取り戻さないと、いつまでも行政主導が続き、破堤の理由も「想定外」の結論に落とし込まれてしまう。

河川の存在意義と自然川・人工川

 災害は「防げる」ものと「防げない」ものに大別できる。地震や津波、火山噴火は、場所も規模も時期も事前に特定するのは困難であるため、防ぎ切るのは難しい。それに対して降雨は、予測もできるし対応もできる。つまり「防げる」内容である。地球表面に降った雨水は集積しながら低地へと流れていく、その雨水をまとめて海に運ぶのが河川である。洪水被害は降雨量が全てではなく、降雨の集積の仕方、集積水を下流に送る河川の在り方に問題があるのである。河川は、地球の表面を流れ下る流水によって削られてできた自然の川と、人間が造った人工的なものとがある。自然にできたものも人工的に造ったものも併せて、河川は全て役所の所轄であり、管理や責任は役所が管轄している。

 災害の頻発している既存河川そのものの必要性や必然性、また、河川の用途や役割を今の時代環境から全面的に見直すことが喫緊に必要である。既存の河川の存在理由を問うてみることこそ行政の最重要課題である。なぜここに川が流れているのか、この川は何の役割を果たしているのか、災害の勃発する原因を内包しているこの河川の存在に、国民ももっと関心を持つべきである。

 降雨による水は、画一的作用により高き所より低きに移動し海へ流れ込む。この循環を人工的に制御している構造体が河川堤防である。水の流れが始まる「起点」と流末を示す「終点(海抜)」、この間の高低差を水自体の性質で流れ下っているのが河川である。起点と終点を表すエレベーションを河底に設定し、流水高さを決定すると、それより高い位置は安全地帯となる。エレベーションより低い土地は当然水溜まりとなり、そのままでは人は住めない、流水高さより高い土地では浸水の被害は起こらない、水の性質による科学は非常に単純で明快である。

■エレベーションと天井川の関係

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 既存河川で頻発している浸水被害は、高低差を示すエレベーションおよび流水高と、生活地盤の高さとが非科学的で原理に適合していないことで生ずる明白な結果である。理想的な河川形態は、標高差を十分取り、流水高さに余裕を持たせるために河川幅を広く取り、流水高の上に生活地盤高をしっかりと確保することである。既存の河川は、終点となる海抜からのエレベーションを無視し、既存の生活地盤の上に流水高を持ってくる「天井川」となっている。その天井を支える堤体が土を盛り上げた昔ながらの土堤である。
河川のメカニズムは、降雨を地表面が受け小さい水路(静脈)で集めて本流(動脈)に流し込むと、本流を流れる水量は段々と容積を増し、水高が高くなって河川内の水圧は上昇していく。その結果、本流(動脈)の水が支流(静脈)の方に逆流していく「バックウォーター現象」が起こる。本流が上流で集積した水量を下流の支流に押し戻すことになる。本流に集積できない降雨の残量に本流から逆流水が入ってきて積算される、これは全て科学のメカニズムである。

■バックウォーター現象

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 浸水被害のあった鬼怒川も真備町も嵐山も福知山も標高は10メートル~30メートル以上の高い地形の場所である。標高の高い場所で浸水する理由は、河川のエレベーションが高く、天井川の構造となっていることの証明である。河川の氾濫を誘発する基本的要因は天井川にある。上流の山林伐採や都市化による舗装面の広がりで、浸透水量が減少し一気に水嵩が増す、その対策に土堤を盛り上げて堤防を嵩上げしていく対策を取ってきたが、天井川の嵩上げは破堤の危険度を増幅し、自然との共生に逆行しているのである。

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 増幅する降雨量や自然環境に対応して総雨量の収容を拡大する為に天井川にするのではなく、エレベーションを見直し、河川底を掘り下げることが原理的解決方法である。河川は、広域的に降雨を集める小川(静脈)と、集積した雨水を収容する本流(動脈)とからなるが、本流には流水高を調整する川幅と、流速を調整する勾配が必要である。長距離に及ぶ河川では集積した総雨量が積算されて増幅されていく。集水の役割と、導水の役割に加えて、総量を下流に導く「導水専用流路」を設けないと逆流の恐れがあり、浸水の危険は払拭できない。

 特に都市近郊河川は人間の手によって人工的に造られているが、その計画は全て行政が掌握し管理している。河川全体の雨水の収容容積・流速・流量・高低差、このバランスによる全体の構造物の強度が保たれていて河川は正常に稼働するのである。どこかでバランスを崩せば河川本来の機能は失われる。このように河川のメカニズムは科学に裏付けられた単純な機能で保たれているのである。この機能を高度に維持し守る技術は既に完成している。逃げることばかりに精力を使い、科学を無視して河川を恐れていては、いつまで経っても解決には至らない。

河川堤防の崩壊に対する国民の立場

 既に述べた通り、堤防崩壊のメカニズムはハッキリとしているが、そもそもの原因は、計画段階の調査不足やデータ不足、本質の読み違い、設計上の認識不足や前例主義の踏襲による機材や工法の古さ、役所主導による科学技術検証の無精査と施工上の完成度の低さにある。土堤原則を踏襲してきた行政は、堤防が土饅頭でできていることに何の違和感も持たず、土堤を新しい建材を使って補強することすら拒み、「土堤に異物を入れるな」と、一喝してきた。堤体の構造や役割を科学で精査すると、補強建材が堤体の主構成構造体を成し、既存の土堤が異物であることが証明できる。

 責任構造物は、国民が血税を納めて安全を担保するために行政に任せたものである。「今夜は大雨が降るから逃げてくれ」ではなく「今夜は大雨が降るからお家でゆっくりと休んでいて下さい」というのが本筋である。そのために堤防を造ったのである。逃げることが優先なら、最初から堤防は造らず、逃げる手段に金を掛けるべきではないか。最初から逃げるという「抜け道」をつくるから、安全で安心して暮らせる世の中がいつまで経ってもでき上がらない。造っては壊れ、壊れては造りして、被災地では尊い人命を失い復興には莫大な金を掛けて、また同じことを繰り返している。これではいつまで経っても国土に良質な防災資産の蓄積はできない。国民はいくら働いても頑張ってもその代償を、行政が濁流に捨てているようなものだ。国土防災の重大さや課題は、全て行政機関が掌握している筈である。この行政が公共放送を使い、自治体を使って国民に逃げることを強制している。これは自分が企画し設計して造った堤防が信用できない、国民を守ることができないと言っているのと同じである。国を代表する防災の専門家が会議を開いて逃げる基準を作成し、「逃げる順番をレベル1から5までとして定めた」という。言語道断であり、何とも腹立たしく情けない限りであり、無責任も甚だしい。基準レベルをつくって国民に発表するなら、行政主導で造り上げた堤防の脆弱度をレベルで表現すべきではないか。

 自然災害から逃げることが前提であれば、未来永劫国民の生活の安全と安定は望めない。逃げて解決する事は何もない。政治でも経済でもスポーツでも企業経営でも、受け止めて、立ち向かって初めて解決の糸口は掴める。現在、堤防崩壊を完全に防ぐ科学技術は既に確立している。行政の取り組みに抜本的な「思考の革命」と「改革」が無くてはこの悲しい事態はいつまでも繰り返される。国民も、災害に対する真理や実態を知り、税金の使われ方やその役目の意味と意義をしっかりと理解し、国民運動を起こして、防災に対する抜本的な改革を検討するべき時期に来ている。

「既存構造物」の原理的脆弱性

 防災目的に構築している既存構造物はほとんど全てが「土堤原則」を主体とした構造で、地球の上に土砂を盛った三角錐型の長大構造物が主流である。またそれをコンクリートで被覆したものもある。海中に構築する防波堤や岸壁は、一個が100キロから数トンの割石を基礎材に使用し、捨石として海底に敷き詰めて調整し、その上に「ケーソン」と呼ばれる数十トン、数百トン、数千トンあるコンクリートでできた箱形状のブロックを沈めて並べ、長大な壁体を造るのが主流である。いずれの構造物も地球の上に載せている「フーチング構造」と言われるものであり、自然災害の威力を受け止める防御原理は「構造物の自重」に頼る構造である。

■ 「構造物の自重」に頼る構造の防潮堤・防波堤(フーチング構造)

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 自然界が発するエネルギーは、地震による衝撃波や、津波による波力、台風、洪水、高波、土砂崩れ等であり、それぞれの要因によって発せられる起振力や総力は個別に違うが、発生するエネルギーはいずれも大きいものである。この自然の強力な破壊力を防御するのが防災構造物であって、古人がその時代の資材・建材を使って最高の技術を持って施工にあたり、自然災害と戦い続けて今の近代文明の樹立に辿り着いたのである。有史以来の戦いは、気まぐれな自然界の挑戦を、人間が人知で受け止めて勝敗を決してきた。人間は時代と共に進む科学技術を駆使し自然と立ち向ってきたが、その中で特に強敵となるのが「水」である。「水を制する者は国を制する」と言われるが如く、水は人間にとって必須の宝であるが反面扱いにくく、変身すると一変して荒れ狂う恐ろしい自然界の怪物となる。数ある自然災害の中で、この水の災害を制するために構築する河川堤防や防潮堤が、国民の身近に幅広く接している防災構造物の代表である。

■ 東日本大震災で崩壊したフーチング構造の防潮堤

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 これらの防災構造物は時代と共に発展進化していくべきものでありながら、行政の前例主義の暴挙に阻まれて進化が止まっている。災害の前例を教訓として同じ過ちを犯さないことが人類の唯一の知恵と力であるのに関わらず、毎年自然の力に打ち負かされて多くの犠牲者を出している。業界では早くから解決方法を確立している。一日も早い国内全河川の抜本的な見直しが喫緊課題である。昔ながらの土堤にいくら金を掛けても、改造しても、根本的な構造原理が大昔にできた人力主体のものであり、非科学的であること極まりない。国民の安全と安心を守る防災構造物は、最新の科学でできた資材と最新技術による工法で構築された責任構造物でなくてはならない。

防潮堤の役割と構造・崩壊

 防潮堤は、河川堤防に次ぐ重要な役割を持っていて、地球上で最も大きい水溜である海の外壁を構成している。「海は水を辞せず」の言葉通り、海は地球の陸地面から出る全ての流入物を受け入れる広大な容器である。防潮堤は、高潮・高波・津波等、自然の起こす現象の営みのピークカットの役割を果たす構造物であり、河川堤防と同じく責任構造物である。平常時において海は、押し波と引き波とを規則的に繰り返し砂浜を漂う安定した波打ち際を形成しており、防潮堤の役割は何も無い。しかし気候変動や津波発生時に果たさなくてはならない役割は大きく、正に責任構造物の最たるものである。もし外壁が破れると大量の海水が一気に陸地に流れ込み甚大な被害をもたらす。普段は不要のものであるが有事の時に、海の器の外壁として、守り抜いてくれるか崩壊するかで、天国と地獄の差が出る重大な責任構造物である。

<構造>
 防潮堤は、数百メートル、数千メートルと延々と続く長い「長大構造物」である。標準形状は、土堤をコンクリートで覆い、上部に波返しのパラペットを載せた断面形状である。一般的には砂浜を掘削し、コンクリートを使って台形のモナカ構造を構築し、モナカの外側の部分はコンクリートでつくり、中詰めにあんこの替わりに土砂を詰めたものである。このモナカ状の堤体を地球の上にそのまま置いた構造であり、歯が抜けた高齢者が総入れ歯を歯茎の上に載せている状態である。「砂上の楼閣」の如く、地球の上に置いた長大構造物であり、原理的に何の災害もない状態の時でも自分自体の全体の体型を維持し保てる構造ではなく、基本的に至って脆弱な構造形態である。主要材料は、コンクリートと土砂でできており、形式は「フーチング構造体」であって、波を防ぐ抵抗力の仕組みは構造物の重量である。地震時には、この長大構造物に対してそれぞれの位置に地震波が襲う。地盤の違い、構造物の線形の違い、構造物に当る振幅の強弱や角度等から、前後・左右・上下に、ねじれのエネルギーや衝撃を繰り返し受ける。地震波はフーチング構造物が載っている底面の地盤を繰り返し揺動させて、構造物の慣性力と反発作用を起こす。構造物の慣性力に対し、地震波のエネルギーは比較にならないほど強力なものであり、構造物がいくら大きくても地震波の盾にはならない。地震に見舞われると、人間の掌でドミノをやっているようなもので、何の踏ん張りも、粘りも無く、モナカの皮の部分はガラスか煎餅を割ったような無残な姿になり、中身のあんこの部分の土砂は、垂れ下がって拡散する。

 このように既存の防潮堤の構造は、堤体を構成する「主要素材」がコンクリートと土砂であり、物理的・科学的に不適当な材料である。壊れてはならない、粘ることを求めている責任構造物としては、最初から素材も構造も不適格な構造体である。また、重量で対抗する構造であるフーチング構造も防潮堤には適していない。歯茎の上に置いているだけの構造では、地震や津波には全くの無抵抗であり、肝心の粘ることは物理的、科学的にできない構造である。

■ 防潮堤の構造

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<崩壊>
 津波は、押し波、引き波を繰り返す、その時の越水で、壁体の表側と裏側が洗堀され脆弱さを加速させる。またモナカ構造の長大構造物は歪が集まったところに応力が集中して破壊することが最初から決まっている。既存の防潮堤の主材料はコンクリートと土砂である。これを地震が襲い、続いて津波がタタミかける。これを動物に例え、堤防を牛に見立てると、牛をいくら肥育して太らせ筋トレで鍛えても、襲ってくる津波はライオンである。「コンクリート+土砂」vs「地震+津波」の勝負は、素材の持つ機能で最初から負けているのである。

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牛をいくら肥育し太らせても、襲ってくるライオンには敵わない

 東日本大震災で、要塞と言われていた岩手県宮古市田老地区の防潮堤も、地震の瞬間に応力の集中箇所が破壊され、その傷口に津波が容赦なく襲い、大惨事を引き起こした。
既存の防潮堤は、①堤体を構成する素材が地震力と波力には勝てず、②フーチング構造で地震・津波に対して耐え切れる(ふんばれる)構造ではなく、③モナカ構造でどこかに応力が集中すると崩壊する。既存防潮堤の素材や構造は、高波や津波に対抗し受け止めることが最初からできない構造であり、原理的に責任構造物としての使命は果たせないのである。

 防潮堤は、地震に耐え抜いて、次に襲ってくる津波に対抗するためにある責任構造物である。その構造物が最初に襲ってくる地震で崩壊するなど言語道断である。防災構造物には、ハッキリとした役割があり使命がある、責任を持ってもらわないといけない責任構造物であり重要施設物である。既存の防潮堤は、地震によって弱体化し、その後に襲ってくる津波の第一波の押し波で根こそぎ流されてしまう、引き波に対抗しようにも、既に跡形も無く流されている。たとえ堤防を越える高波が来ても堤体が残って粘っていれば、波流のエネルギーを大きく減退することができる。東日本大震災時も、津波の第一波で堤防が根こそぎ流れたが故に、海からの大きなエネルギーが山まで到達し大災害となった。いくら大きな波頭が来ても堤体が粘って残存していれば、被害は大幅に減少していたことは確実である。防潮堤はまず地震に耐え、次に襲ってくる津波に堪えうる構造体でなくてはならない。国民は巨費を投じて自分の安全安心を行政に全て託しているのである。脆弱な構造体に大金を注ぎ込んで構築し、責任構造物として国民の安全を守ろうとした行政の責任は大きい。

■ 東日本大震災でバラバラに崩壊した防潮堤

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ダムの役割と開門の大罪

 施設にはそれぞれの目的がある、ダムは治水や発電、灌漑を目的に構築するが、建設に当たっては多くの集落移転や先祖伝来の有形無形の資産や文化・歴史の埋没が必至で、多大な犠牲の上に構築されるものであり、その使命も責任も非常に重く大きい。ダムは河川の源流を成し、そのコントロールは下流の全ての触角を制御するメインスイッチの役割を果たしている。正常時は、干ばつ時の命綱となり、発電の原資であり、灌漑、治水の役割を果たしている。建設計画の際は、下流域の治水の必要性を説き、灌漑による農業の育成や新しい農地の開拓を掲げ、水力発電の大切さを強調し、ダムの必然性と必要性を強調して地域住民をはじめ関係者の同意を求めて実行に移す。設置にこぎ着ければ、大金を投入して長い年月を掛けて竣工に至る大事業となる。ダムの建設に当たっては良いことばかりを掲げて強引に実行に移すが、ダムができたことによるマイナスも多大なものが出ている。大自然に人間がメスを入れ自然の営みをコントロールするわけだから、人間の思うようにいく筈はない、美しい筈の河川は年中濁り、海岸は痩せ細り、磯焼けは進み、生態系は著しく破壊されている。

 また、ダムの正規の役割を守るために、豪雨で下流域が浸水し、口元まで水が迫り住民がつま先立って助けを求めている非常時に、事もあろうに源流でダムのゲートを開いて水を放流する、こんな考えられないことが続けられている。洪水時に下流の浸水を防ぎ調整することがダムの大きな目的であり役割である。その大切さに諭されて、先祖伝来の財産を譲り渡したのである。過去の多くのデータと現在の科学技術を駆使した結果が、ゲートを開く指示であったとすれば、ダムは広域的に大被害を発生させる元凶であり正に凶器である。異常な降雨だったとか、ダムの底が埋まって容積が足りないとか、それは全て言い訳である、普通の降雨調整ならダムは要らない、異常な降雨を調整する為にダムを造ったのだ。干ばつや発電のことを思ってダムの水位をできるだけ下げずに維持したい、干ばつ時に叱られるのを恐れて、できるだけ普段に水を貯めておく。そこに降雨があり、思わず収容する残量水量のキャパシティーを失ってダムが満杯になる。満杯になれば放流する。干ばつも発電も直接命に関わる問題ではないし、水は他から補給も効くし電気は金で買うこともできる。下流が浸水して助けを求めている窮状を知りながら、強大なエネルギーを内包した大量の水を源流の頂上にあるゲートを開けて一気に放流して、下流域の被害に追い打ちを掛けている。こんな恐ろしい大量無差別殺人とでもいうべきことが以前より続けられている。

 発電から上がる収益など微々たるものである、それよりダムの開門によって堤防が破堤したその結末は比較にならない大被害に結び付く。台風の進路が確定したら真っ先にダムを空にして降雨に備えるべきである、降雨が始まるとその水をダムに溜めて下流域に流れ込む水量を精一杯防ぐ、そこで初めて多くの犠牲の上にできているダムの真価が発揮できるのである。今までのダムの管理体制は、下流域のことより自分が管理しているダムの今の環境のことに軸足を置いて、その場限りの判断と決断で安易に開門している。1時間後に放流する、3時間後に放流すると言っているが、その時は下流域は浸水し救助を求めている時である。開門の責任を正すとマニュアル通りにやったというが、そのマニュアルは「下流域の住民が作ったもの」では無い、役人が上司の許可を受けてそのマニュアルを運用しているのである。防災の原点を司るべきダムという大金を注ぎ込んだ巨大構造物が大量の犠牲者を出し多くの資産を根こそぎ流出させている。このままでは「百害あって一利無し」で、源流の高台に大量の危険物を集積しておいていつ放出されるか分からず、下流域の住民は常に恐怖の毎日が続いている。この判断を国民に問いたい。

■ 平成30年7月豪雨(西日本豪雨)の際、愛媛県では肱川の上流にある野村ダム、鹿野川ダムからの放流によって、下流域に甚大な被害が発生した。

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鹿野川ダム(写真:共同通信社提供)