国土崩壊 -「土堤原則」の大罪- (3)

行政の責任、学識経験者の役割

科学技術に基づく原理と行政の思考

 地球誕生以来繰り返して起こっている自然災害に対して人間は、それを防ぐために最大限の努力を払ってきた。しかし災害発生時にそれが防げないから被害に及ぶのだ。その防衛手段として構築している構造物が責任構造物であって、行政が計画設計して構築し運営管理しているものである。建設に当たっては過去のデータを基に最強の構造物を建設している筈である。また、我々の血税が注ぎ込まれている絶対に壊れてはならない責任構造物であり、国民の安全安心の砦である。自然災害は予告なしに発生し、その時期や規模も地球は国民にも役所にも事前通達は出さない。だから責任のある立場の機関が予測をして責任構造物を建設している。自然災害による被害が発生したら、その被害の経緯はどうであったか、何が原因で被害に及んだのか、その真意をしっかりと確かめることが最重要である。自然の猛威から守るべき目的で構築した責任構造物が崩壊したのなら、崩壊した原因を徹底して追及すべきである。その原因が、材料や構造の脆弱さが原因であったら重大要素としてすぐに対策に取り組まなくてはならない。

 東日本大震災では多くの防波堤・防潮堤が崩壊し大災害となって壊滅的な被害を引き起こし、多くの犠牲者が出た。この事実を基に、各々の地域や箇所に設置されていた公共構造物に対する被害状況を精査し、構造物自体の破損の理由を科学的に解明し、その結果を公表すべきであるが、想定外を前面に出してほとんど内容を明らかにしていない。災害の規模が大き過ぎたのであれば設計時の想定基準は正しかったか、全く予期せぬ想定外のことが実際に起こったのかなど、構造物の破壊の原因を徹底的に追究しなくてはならない。自然の放出エネルギーは気まぐれで勝手に勃発する。その猛威を食い止めるために行政が知恵と我々の血税と時間を費やして防衛施設をつくり国民と国土を守っているのである。

 この施設がなぜ破壊されたかを精査すると、それは全て「科学」に起因していることがわかる。破壊の原因を科学で分析し正しい答えを出すことが大切である。防災学者が災害のメカニズムを研究することも大切であるが、災害後にメカニズムをいくら云々してもそれは既に済んだことであり何の役にも立たない。災害後の国民の役割は「なぜ責任構造物が崩壊したのか」、我が事として専門的に科学的に追及することに参加してその原因を突き止め、責任の所在をはっきりとし、納得を得ることが最重要であり、次の同じ事故を防ぐ基である。自然力に勝たなければ災害は止まらない。国民の命の掛かった問題である。行政はいつまでも役人風を吹かしている時ではない。一刻も早く最新の科学を取り入れなければならず、根本的に国土を見直す時期はすでに大幅に過ぎている。

 「災害防止」とは、「防災施設」が「災害力」に勝つことである。行政力は権威と古い考えを通し、学者力は屁理屈が先行するばかりで、現実は災害には勝てていない。自然の脅威を防ぐ方法が無ければともかく、早くから完全に防ぐ方法は確立されているのである。早く「最新の科学技術と工法」を取り入れる思考がなければならない。「壊れる」とは、防災構造物に使用している「素材と構造の科学」である、秒進分歩で進む新しい素材や自然力に耐え得る構造を持った工法の選定が大前提である。過去の失敗は、構造体をなす素材の脆弱性と古い工法の非科学性にあり、起こるべくして起こっている、あまりにも単純な結果の表れであり、学者が登壇するまでもなく結論は先に出ている。現実に起こっていること自体が、過去の悪癖の未解決部分であって既に古いのである。

 近代社会になって、衛星を使い、地底・海底・地表にセンサーを設置して、光や電波や音波や電磁波等、あらゆるセンサーを駆使して自然界の持つメカニズムを解明し災害に備えている。また、コンピューターの発達により、膨大なデータを処理し過去の災害の内容を分析し被災の原因の特定を行っている。それに費やしている人材や費用も巨額で半端なものではない。今までの考え方でいくら研究を進めても全て後追いの政策でしかなく解決には至らない。行政のトップクラスも国民も新しい考え方で、実証科学に則った最新の建設イノベーションを取り入れなくては安全安心はいつまでも望めない。

「前例主義」で旧態依然とした建設業界

 建設こそ無限性最多の産業である。建設資材をはじめ、建設機械、施工方法、維持管理と、どれをとっても、新しいものをいくらでも開発することのできる発展性のある業界である。「建設は日々新たなり」今までの実績を上回る性能や有用性の採用、新奇性・発明性に富んだ資材・機械・工法・維持方法の採用等、責任構造物を扱う唯一の業種として、全産業の中で一番新規採用を重要視しなくてはならない業種である。

 建設業界は他の産業に比較して大きな金を消費するが重要な施設を造る、国民には無くてはならない重要な産業である。しかし、現実は考え方も造り方も制度も古く、「化石の業界」だと言われている。取り仕切る行政の立場の強さと業界の仕組みの関係で誰も直訴する者はいない。故に関係官庁の当事者は近代社会では考えられない古い慣習を踏襲し、前例主義等が平気でまかり通る業界であり、他産業との差が開いている。進展目覚ましい現代社会にあって、建設業界だけが化石の如く取り残された古い業界になっている事実がここにある。「やったことの無いことはやらない、使ったことの無いものは使わない、前例が無いから受け付けない」、平然と言い張る「前例主義」が大災害の被害を繰り返す元凶となっているのである。

 建設業界は古い体質であるが故に新しい開発の余地が沢山潜在している。特に危険の解消、省力化、コストダウンなど、いくらでも改善改良をはじめ発明の余地が潜在している。これだけ宝の宝庫である業界にあってなぜ新しい発明・改革・改善が起こらないのか、それは我々民間が昼夜を問わず研究開発を進めているが、形ができると役所がその芽を摘み取ってしまうからである。「やったことの無いことはやらない」という役所の格言的な壁に突き当たる。我々のような開発型企業は、常に新しい建設を模索して全社員が日夜これまでにやったことの無いことに挑戦している。その中から完成品が生まれるが、その製品は、開発当初より「建設の五大原則」(説明は後述)に則った科学的で原理原則に即したものであるが、そうした基準での判断を行政はしない。採用になったとしても勝手に単価を改ざんして業者に発注するなど理不尽極まりない。役所は自分で発明できる訳ではないので、なぜ民間の発明をもっと大切に見守り新しい方向を見出すような努力をしないのか疑問である。やったことの無いやり方だから、「新奇性・発明性」が有るのである。建設公害の元凶であると言われた杭打機を劇的に無振動無騒音に変える発明をしても認めない。現実には広く浸透し、公害の救世主だと関係者が称賛していても「裏歩掛」の形でこっそり発表して正式には認めない。これが行政のやり方である。建設に関わる要件を「建設の五大原則」に当てはめると不都合がほとんどで、多くの改良改善と新規発明が喫緊であることがわかる。発明は世の中の既存の現状を大きく変えて新しい世界を作り出すマジック的存在である。飛行機の発明は世界の距離を著しく縮小した。AI技術は、世の中の全ての課題を解決に導いたと言って過言ではない。世の中の劇的な進展は発明によってもたらされるものである。建設業界ではそれに反して「やったことの無いことはやらない、使ったことの無いものは使わない」と前例主義を前面に打ち立てて、江戸時代よりまだ古い昔のおそらく紀元前にできたものであろう「土堤原則」が未だに神霊化して残り、全国の堤防は殆どが土堤である。

 戦後の荒廃した国土を立て直し世界に冠たる近代国家を構築した恩師や今の土木の関係者の功績は大きいが、このままいつまでも同じことを続けていては、業界は本当に化石になってしまう。業界に人が居ないと言われて久しいが、人が居ないのではない、人は魅力のある職業に転出するのであって、要するに建設業は、逃げられているから人が居ないのである。土木工学を目指す学生はもう数十年前から激減している。全産業で科学技術の進歩発展は目覚ましい、今の仕事を魅力的な仕事に変身させる努力をし、新しい魅力ある産業も常に創出されている。建設業界だけが古い考えで前例主義を踏襲し、いつまでも今まで通りの役所主導での運営を続けているが、このままでは国民に安全安心を与える防災構造物などできる筈がない。

恩師から受け継ぐ一族の功罪

 構造物に関わる専門家は一般的に高校時代に専門科目を専攻し、大学に入ってからはより専門的に専攻分野を極めていく。そこで出会うのが教授である。その教授から入る知識は新鮮で自分には常に未知の分野を広げてくれる大きな存在である。純白の脳裏に様々な公式や数字や図形や教授の実績の話等を定着してくれる。その教授を自分の師匠であり恩師だと仰ぎ尊敬するようになる。

 その教えを自分の糧として社会人となり経験と共にその教えに磨きをかけて自信を増していく。そして教授になり、役人になり、設計者となり、ゼネコンに入って部下に指導する立場になっていく。この一連の流れが延々と循環しているのである。その中身は経年と共に充実は図られているが、革命的な変化は起こらない。なぜなら、一つの分野を深耕する研究者や学者は体質的に幅が狭く研究課題を絞って深耕するため、他の技術や公式、新しい工法等にはほとんど関心を持たず、むしろ敵対する傾向にある。幅を絞ることによってより専門性が高まる。高まることによって業界から注目されるようになる。注目を浴びると自分の研究成果を発表して広く知らしめたくなる、そして国内外を飛び回るようになる。研究の内容に革命を起こすのではなく、忙しい忙しいと飛び回ることで個人の名声が上がり研究内容を押し上げて、有名人になっていく。

 一般的に公共構造物の殆どは鉄筋コンクリートのフーチング構造物である。多くの設計者や役人、工事の専門家は構造物を造ると言えば「鉄筋コンクリート」だと思っている。防災構造物では、防波堤は捨石にケーソン、防潮堤は土堤にコンクリートを被覆しパラペットを載せる。河川堤防は「土堤原則」と、師匠、恩師からそう習っているからである。役人も設計者も施工業者も防災構造物を造ると言えばコンクリートのフーチング構造物だ、土堤だ、と何の疑問も無く頭の中にその構造が描けているのである。入社して定年になるまでに関わった構造体で鉄筋コンクリート構造物以外の構造を手掛けた者は極僅かであろう。それほど、古くて狭い分野に入り込んでいるが故に、自分の知識や先輩や仲間の考え方に疑問を持つことは少なく、いつまでも恩師を慕い尊敬し先輩の言付けを守っている正義感の強い自分を固めているのである。そして、新しい素材や新しい構造体が開発されても、発表されても余り関心は持たず、むしろ敵対意識を燃やして反発し自分達の過去を称賛する傾向が強い。

 役人も、設計者も、学者も、施工者も皆同じ釜の飯で育った同種族であるが故に既存工法が最高の技術であり、先輩や自分達が今までやってきた実績を中傷されることは許されない。東日本大震災では2万人に及ぶ犠牲者を出し大災害となった現実を踏まえても、新しい構造体を採用することには強く抵抗を見せ、破壊された同じ構造体の転用が主流である。恩師から営々と受け継いで踏襲してきたコンクリート構造物も自然の力には勝てなかった、そのために2万人もの犠牲者を出した事実を如実に見せ付けられているにもかかわらず、また、同じ構造体を拡大し改良して設置し、既存の構造物の正当性をカバーしようとしている。この現実は余りにも非科学的であり、無知であり無謀であって、一般国民からすると犯罪行為だと言っても過言ではない。

 土木で構造物を造ると言えばコンクリート構造物だと同一に思う、役所をはじめ、設計事務所、防災学者、建設業者、皆が「コンクリートラバー」の一族であって、他に選択肢を持っていない。「これが壊れたのだから仕方がない、自然の力が強すぎたのだ」と、一本の幹から根分けしたDNAを持った一族が、いつまでも繰り返している同じ失敗から抜け出せず、前例主義の枠組みを守り続けているのである。

 同じ幹から株分けした学問では「是か非か」の判定が付かなくなっている。前例主義は決して科学ではない、科学に則った原理原則のしっかりとした、新しい学問の早期の取入れを望むところである。発明が世の中を変えるのである。発明は今までやったことの無いことを今までと違う方法でやれるようにするのであって、前例主義の切り口とは全く反対の考え方である。建設業は今までと全く違うやり方で、その目的を全うし、責任の持てる構造物を造り、国民の安全安心を得なくてはならない。こうした現実を精査して早く学問に落とし込まないと危険国家の汚名をいつまでも引き摺ることになる。

 災害が起きると役所は前面には出ず学者が登壇する。学者は自分の研究を介してその持てる自分の知識で対応を述べるが、ほとんどが先輩の手によって進められてきたコンクリート構造物の被害内容である。登壇している学者も同じその道を究めた者で、その延長線上での対応しかできず、科学的な解決には至らずいつまでもイタチごっこを続けている。計画を立てた人、設計をした人、造った人、運営をしている人、それぞれ立場は違うが元を正せば皆同じDNAを持った一族である。俺達が造ったものが壊れる筈が無いと、自分の周囲の誰をも責めないで、この度は想定外に自然の力が強かったと結論付ける。

行政の責任

 自然災害そのものを完全予測して、コントロールすることは難しいが、地球誕生以来繰り返し起きている災害の内容を把握するに至る科学技術や、参考にする過去のデータは整っている。行政の本分でありその責任は、自然災害に対して、それを予測し、それに備え、万全な体制で国民の命と財産を守り、生活を維持し、歴史・文化を守り抜くことである。

 国民の使用する公共構造物は全て役所の所管であり管理管轄下にある。民間の構造物も国の定める規定や基準に準じて造られ検査の対象である故、これも行政の責任である。公共構造物の構築は、重要性や必要性を判断し、その計画から設計、施工方法、工事金額、工期を決めて施工業者を指名し実行に至る。出来上がった完成品の運用管理まで全て役所主導の形態である。公共構造物を構築するに当たっては、一件一件の物件がその目的と役割を持っている。インフラ整備や防災工事等、やらなくてはならないものは無数にある。その中で重要性・必要性を見極めて優先順位を決めて計画し、実行に移す。防災に関わる構造物は、国民の安全上からも最優先しなくてはならない。

 国民は法律上の義務に従い納税をしている。それを防災に費やす比率は大きいが、国民はその内容に直接関与することはできない。全て役所主導で計画し役所主導で構築し役所主導で運営しているが故に、国民は行政を信頼せざるを得ない状態である。このような国家の重要な位置付けにあり行政が全てを掌握している公共構造物が毎年のように自然の被害を受けて多くの人命を失い財産が霧散しているが、この事実を関係者はどう受け止めているのか。一般国民が全く関与できない領域の中で国民が直接被害を受けているが、その被害状況を克明に精査すると被災の程度は違っても原点に変わりはなく全く同じことを繰り返している。国民は義務として納税を続けている。その金を使って同じ過ちを繰り返しているのである。「造っては壊され、壊れては造り」これではいつまで経っても国の安全を守り、国民に安心を与えることはできない。紀元前に遡るであろう、古人が人力で造ってきた土饅頭の土堤を政令で土堤原則として定め頑なに守っている。今の激甚化した自然の猛威に対し土堤では科学的にも原理的にも勝てないのである。役人がいくら前例主義を主張してもエネルギーの本質は「自然力」であり「役人力」では及ばない。前例主義を踏襲していくなら「AI技術」が人間を遥かに超えている。先輩がやった業務は簡単にAIで消化することができる。AIなら償却されて装置は毎日ゼロに近付き経費削減は国民にとっても大いに役立ってくれる。先輩がやってきたことを続けるなら行政が一番先にAIを導入すべきである。国民が行政に望むのは、「やったことの無いことはやらない、使ったことの無いものは使わない」、この前例主義はAIの仕事として任せて、役人は、開発の進む科学技術をいち早く先取りし、世界中の最先端技術を導入する役割を仕事の主力にすべきである。そして建設を世界に冠たる科学技術を持った産業に仕立て、全産業のモデルを作るべきである。一度しかない人生をAIで消化できる仕事に軸足を置き、役人面を下げて権威を振るっても、国民は皆解っていて虚しい人生だと評価をしている。

解決に至らない行政の思考

 逃げるが先決であったら何も防災構造物を造ることはない。逃げる施設を最初から作っておけば良いのである。行政が造った今の防災構造物、つまり責任構造物が自然の営みに勝てないことを関係者は暗黙のうちに理解している。「俺たちに責任はないのだ」と、できるだけ早く発表して自分たちの責任を国民や自然の営みに転嫁していることは明白である。逃げていて解決するなら既に解決している筈だ。毎年毎年同じ災害を繰りかえしているのは行政の上に立つ者がいつも言い訳をして逃げるからである。逃げて解決をする問題など何もない。正面から向かい合って、受け止めて原因を科学で精査して最新の技術を取り入れるのが行政の役目であり責任である。

【国は洪水時の避難などソフト対策を重視する姿勢を明確化している、住民の自発的な取り組みが必要である、社会全体で水害に対応する“水防災意識社会”という概念を掲げた、河川整備の目的は氾濫防止だけでなく、住民が逃げる時間を確保するように氾濫を遅らせるためのものである】

 上記のようなふざけた記事が専門誌に出ている。なぜ行政は最初から逃げることを考えるのか。「今夜は大雨の予想だから皆さんお家でゆっくりお休み下さい」と、国民に安全と安心を与える為に堤防(責任構造物)をつくったのではないか。行政はそのために存在している、逃げる政策を表に出すなら最初から堤防を造る必要はない。国民拠出の大金を使って防災施設を造っておきながら国民に逃げろとは何事か。考える基準が全くずれている。

【河川管理者は、氾濫すると甚大な被害が出る河川を“洪水予報河川”や“水位周知河川”に指定して、これらの河川では洪水時に浸水想定区域図を作成する】

 このようなことも報道しているが、それだけ浸水する河川とその区域がわかっていれば、水害を想定する時間と費用で堤防の構造を見直すことが先決だ。後追いの行政が繰り返し事故を起こしているのは、ひたすら小手先の対応を続け、解決には至らない行政の責任だ。

【(国総研水循環研究室)河川の背後に住む人にとって自分たちが危ないのだという“気づき”に繋がることを期待している】

 このような無責任極まりないことをぬけぬけと国の上部の担当責任者が言っている。河川の背後に住む人に、危険が及んでいることを早く知っておくように要請している。危険がわかっているなら早く安全な堤防に変えなくてはならない。それが行政の任務だ。いつまで経っても他人事で、自分の立場の責任であることを自覚しないで、責任は民間の貴方にあるのだと先手を打って、だから先に言ってあるではないかという言い訳である。

【越水による破堤に対して天端を舗装してあったため2~4時間破堤が遅れたことを好評価している】

 国民を安全に守る行政の専門家が、破堤が遅れたことを称賛し評価している。破堤してはならない責任構造物の堤防が破堤している大変な事実を言い逃れする役人の根性は許しがたい。堤防は如何なることがあっても破堤してはならないのだ。国民の血税を使って、企画から設計施工管理まで全てを管理監督している行政が、繰り返し発生する大事故を真正面から受け止めず、枝葉に向かって調査研究に走り、防災の専門家と称する解説者と一緒になって、核心には全く触れず、事の重大さにも至らず「想定外」へと逃げていく。後追いばかりの現実でいつまで経っても国の管轄責任としての責任は取らない。これでは国家は疲弊し国土崩壊が訪れることが見えている。

役人の正義感

 国民は、同じ法治国家のもとに生まれ統一の義務教育を受けた後、それぞれの職業に就く。職業を分類すると数あるが、大きく「役所」と「民間」に仕分けすることができる。もとは同じ国民であるのに、役人と民間人と分けると、役人が偉くて民間人はこれに従っている感があり、お互いが納得している節もある。同じ国民なのになぜこのような差が付くのか。役人は、法律の下で規則を作りそれに従わせる権限を持ち、罰則を科せる権利を持っているからである。また、税金を徴収し予算を立て予算を執行する権利を持っている。こうした法律と規則を盾に公務に従事している立場上、上位に位置している。役人自身から見ると、俺達役人が国を守り不正を取り締まり、庶民の盾となって日々国民を守ってやっているのだ、だから庶民が安全に暮らしていけるのだと。これが役人の正義感である。弱きを助け、悪を懲らしめる正義感は尊い限りである。その一方、負の力も大きい。役人は正義感を最高の誇りとして公務に当っているが、一般的に本人達には気付かない公罪を多く内包している。私見として言えば、まず正義感には一般的に、「権利意識が非常に強い、数値性が少ない、科学感覚に疎い、時間の経過感覚が少ない、時代感覚が鈍い、本当の金銭感覚が薄い、新奇性・発明性に疎い、先進性が脆弱である、選択性感覚が薄い」等、俺達がベストなやり方を教えてやっているのだ、と何の悪びれもなく指導しているが、とにかくその内容は古いのだ。先輩のやったことの踏襲でしかない。国民が良いことをやろうとしているのに、その内容には関係なく、そんな前例は無い、マニュアルを調べたが載っていないと一駆にする。「やったことの無いことはやらない、使ったことの無いものは使わない、前例が無いから受付けない」これは俺たちの先輩がやってきた良いことだと称えて称賛し、自分も先輩の実績に従う、リスクも負わずに責任を全うできるという役人を代表する正義感である。この時代感覚の欠如と科学発展に対する疎さ、先進性の無さが大きく世の中の発展を阻害しているのである。特に建設業界においてはその主権を全て行政が掌握しているが故に、やっていることがことごとく古い。お釜で飯を炊き、洗濯板で洗濯し、籠で旅をしている如く「百年一日の如し」であり、あなたの本当の実力は何なのか、あなたは今まで自分の力で何を実行して、何の実績を上げたのかと問いたい。先輩がやったことのあるものはAIに任せればよい。法律に有ろうが無かろうが、前例に有っても無くても、その方向性が、先進的で国民の為になるものであれば、何とかそれを自分の力で実現させてやりたいと努力する、そういう役人を国民は求めているのである。

崩壊した防災施設構造物の科学的精査の徹底

 防災構造物の設置は行政関係機関の企画、設計、施工、運用管理と全てを行政が司っているのであって当然その責任も全て行政にある。地震・津波の規模は行政が予測し切れるものではないが、計画の時点では災害を予測し計画設計の下で施工を行って、その完成結果を検査して合格した完成品を行政の監督管理の下で運用しているのである。東日本大震災では、その完成品施設構造物が崩壊したことで大勢の犠牲者が出て大災害になったことは事実である。災害後、多くの災害専門家を名乗る者が出て来てメカニズムや事後処理のことを云々しているが、それは、自然災害研究の学問であり、内容の解説はジャンケンの後出しに過ぎず直接被災者や国家の為にはならない。建設時にその構造物の受け持つ目的を想定も含めて設計し、その仕様に従って構築した構造物が「どうして破壊された」のか、そこが最重要点であって、その他のことは研究者の学問の領域である。全ての地域や箇所で想定外であったと責任を回避することはできない。この施設があったから逃げるのに数分の余裕ができたとか、防潮堤は津波の為に造ったものではない等と、役人や学者がしきりに責任回避を言っているが、国民は、最初から逃げることが前提で防災施設を造るなら、そこに莫大な税金は投入しない。現実に構造物が破壊されているのに、その真実の究明を科学に求めようとしない。いつも責任者である行政は前面に出ず、防災の専門家と称する御用学者とマスコミがもっともらしく原因やメカニズムに関する私見を並び立て、今回も「想定外」に自然の威力が強かったと、事後の対応ばかりの無難な意見を取り纏め、視聴者を納得させている。本来は、自然災害から国土を守り、国民が安全安心な生活を送るために防災構造物を構築したのである。その構造体が自然力に勝てなかったことの事実が表面化して現実の姿を晒しているのである。いとも単純な方程式であって、そこに烏合して屁理屈を語ることではない。勝てなかった構造体を精査し計画時に想定していたより大きな力が加わった為に破壊されたのであれば、さっそく今後の計画に取り入れなくてはならない。計画時の想定と大きな差があれば当然資材や工法を根底から見直さなくてはならない。それが責任構造物を取り仕切っている関係官庁の責任である。

 150ミリの大雨が降ったと騒いでいるが足首に来る程度だ、500ミリ降っても大人の脛(すね)の位置だ。その程度であり大した降雨量ではない。家の天井まで浸水したのは、堤防が決壊したからだ。大きな災害に至るほとんどの原因は堤防の決壊である。洪水を防ぐために巨費を投じて造った堤防がどうして決壊したのか、その理由は何が原因なのか、その原因はどこにあるのか、そこが焦点であり、堤防さえ決壊しなければ皆幸せに暮らしているのである。逃げる技術や後処理の問題を云々することではなく、まず災害に至った科学的根拠に基く、原因の究明と行政の責任を明確にするべきである。

 国民が安全で安心して暮らせる防災施設を司っている関係官庁が、被災した構築物が、まず災害に備える万全の責任構造物であったのか否か。それが崩壊したのであれば、建設前の企画段階において予測や計画に誤りはなかったか、構造体に設計の間違いや手違いはなかったか、構造体の構築時の工事に手抜き手違いはなかったかを精査し、受けた自然のエネルギーは如何ほどだったのか、全て科学的に精査して原因を抽出すべきである。企画や設計に関わる者、工事に係る者、それを司る関係者がいつまでも前例主義で土堤原則を踏襲しフーチング構造を基本としたコンクリート構造物が全てであって、これが万全の策だ、これ以上の物はないのだと昔ながらの考え方を踏襲している。

 特に防災施設については役所主体で計画・設計・施工管理・運営と一連の流れを実行しているが、自然災害の繰返しに適切な対応ができていない。この繰返しが、想定外の災害規模であったとしても、一度決壊した土堤を決壊前の同じ形状の土堤に戻している。故に次々と同じ形状の堤防が決壊して毎年のように多くの人が死に大災害になっている。これは科学の領域であって、原理に合致していない構造だから崩壊を同じく繰り返しているのである。これを役人の正義感で防ぐことはできない。役人こそ科学に立脚し原理原則を追求し、新奇性・発明性の技術をいち早く発掘しどこよりも誰よりも早く採用することに国民の代表たる使命と責任がある。

スーパー堤防の考察

 日本を代表する河川の河口にはスーパー堤防と称する巨大な土堤堤防が延々と居座っている。その目的は何なのか、その存在の意義と意味を国民は知っているだろうか。おそらく国民は大きな河川が流れているから大きな堤防があるのだろうと、その存在を当り前だと思っている筈である。

 確かに有事の時は水嵩が増えて相当量の水量を収容する必要がある。10年に一度か50年に一度か百年に一度か、その時のハイレベルに合わせて堤防の高さを決め、その高さの30倍を基準として安定的な法面を確保してスーパー堤防はできている。有事を想定して出来上がった堤防全体の施設は普段は何の仕事もしていない。堤内を水がチョロチョロ流れているだけで、堤体そのものの広大な面積と堤体自体は全く何の役割もない邪魔者である。数百メートルの底面を持つ堤体が都市部を真っ二つに割って延々と続いている。二分された都市は機能を失うためそれを繋ぐ長大橋を数十箇所に建設し都市機能を補っているが、平常時のことを思うと全く無駄なことである。スーパー堤防は有事の時に大容量の水を堰き止める為に設計されたものであるが、全く古い考え方で、「土堤原則」を前例主義で押し通している役所の悪例の代表であり国民が納得できるものではない。

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 どんな構造物でも目的があって構築する。大量の水を高い位置まで収容する目的に「土堤」を使用すること自体、全く非科学的であり、施設全体の機能上から見ても都市機能から見ても何の利用価値もなく、今の形態を延長させることも難しく国民の利点は全く無い。全て役所主導で動いている我が国に於いて企画設計の考え方の古さと前例主義が次々とマイナス要素を醸し出していつも国民はその弊害を被っている。役所は権威を行使して一度決めたものは変えないと主張し、取り巻く関係者も同じDNAの一族として、ご無理ごもっともで同調し、全く学習能力は効かず科学のメスは入らない。この都市を二分するスーパー堤防こそ、最新の科学技術を持って構築すれば、幅が5~6メートルも有れば充分であり「建設の五大原則」を順守し、最短の工期と最小の経費で科学的で原理原則に則した最良の構築物が出来上がる。新しい思考からは、広大な有効土地が捻出され、堤内には近代的な施設ができて市民が集い、子供が思い切り遊べるウォーターフロントができる。堤外は近代都市の機能を持った全く新しい施設や産業が自由にでき、大きな収益を上げることができる。このような近代に相応しい計画の立案がいくらでも考えられるのに、行政の前例主義に阻まれて大昔の御代官様のお裁きを受けて先祖伝来の土地を摂取されている地権者が不憫でならない。

許認可制度の不都合

 世界中の大方の学者が液状化は自然界の悪者で耐震・免震に対して悪影響を与えると言っている。それに対して原理を生かせば、液状化こそが自然界の耐震・免震の特効薬だということができる。その主張は、地震が起こる度に自然が証明してくれている、その現状をベースに長年掛けて研究を進め圧入原理の優位性を使って新しい構想を纏めて筆者は「拘束地盤免震」の名称で発表している。液状化地盤を拘束することによって液状化のマイナス要素である「上がる」「下がる」「傾く」を最小限に抑えることができることが実証できた。既存の構造物は地震のエネルギーに対抗する丈夫で大きな構造に段々と進んでいるが、いくら頑張って大きくしても、また、強くしても地震の威力には敵わない。それに対し「うちわ構造」と称して軟弱地盤の上に構造物を置き、自然のエネルギーに身を任せる、今までとは発想の違う構造を我々は提案している。

 これを自社の敷地を使って、自社の資金と責任下において実物実験をしようと企画すると、監督官庁が「大臣許可が無いと建設はできない」と言ってやらせない。全く新しい構想を具現化する前提で申請しているのに国土交通大臣がその許可を云々する根拠を持っている筈がない。長年の研究と自然界の実証体験によって、新しい発明の芽がやっと育ち、今までと全く発想の違う新しいものが出来ようとしている。この新しい芽を、今まで通りの役所の考え方で、ああでも無いこうでも無いと否定せずに、国土交通大臣が先頭に立って新しいことや良いことは「成功しようが失敗しようが自分の力でやってみなさい、行政も全面的に応援しよう」と発明家の背中を押せば、成功の可能性は一気に高まる。成功すれば世界に通ずる日本の最新で最高の技術になるのである。どんな産業でも発明が劇的に現況を変える力である。許認可を下す現有力は行政が持っているが、実際の発明はほとんど民間である、その発明は一朝一夕ではできない専門の立場で、一心になって時間を掛けて注力しないと実現するものではない。その新しい芽を、許認可を出す行政が摘み取っていては暗国になってしまう。過去を踏襲するのではなく、敵対するのではなく、一緒になって成功に導く国のリーダーを望んでいる。

行政の考えと国民の考えの乖離

 行政が言っていることを、マスコミをはじめ、防災関係者が何の疑問も持たず発表し、国民もそれに従おうとしている。最近の傾向は自然の営みが何であろうと、たかが毎年やってくる梅雨の気象予測であろうが、気象庁をはじめマスメディアが「大変だ、大変だ」と騒ぎ立て、知事が出てくるは、一国の総理までがテレビに出てきて「自分の命は自分で守ってくれ」と騒ぎ立てている。大型の台風や津波ならともかく、繰り返されている四季の日常の天気予報に異常に反応している国家を見るにつけ、何ともその本質の理解の脆弱さを憂いに思うところである。防災の専門家やマスコミや御用学者が一緒になって、とにかく逃げることが第一番だ、災害の規模がどうであれ真っ先に逃げるのが基本中の基本だと教えている。「自分の命は自分で守れ」と言っているが、言われなくても国民は誰でも解っている、その自分の命を守るために国民は防災構造物に多額の納税資金を拠出しているのである。一国の総理が先頭に立って公共電波を使って梅雨時の降雨に対して、自分の命を守って早く自分で逃げてくれ、国家は責任を負えない、と騒いでいる。この姿を見て関係官庁の責任者や政治家の防災に関わる者は親分をここまで追い込んで良いのか、分別を持った国民は国土崩壊を身近に感じとれる。

 行政もマスメディアも国民も、危険が自分達に直接関係しているが故に、役所や専門家や研究者を頼り過ぎ神霊化しているのではないかと思われる。災害直後の特別番組に登場する専門家は、この度は、こういう理由で災害が発生した、こういう理由で被災が大きくなったと解説するが、それはあくまで研究者の所見であって、国民は被害を直接受けて実地体験の中で被災して困っているのである。災害後に登場する専門家は、こういうメカニズムでこの災害が起こった、だからこういう状態になったと、その原因と結果を理路整然と解説するが、被災者はそんなことはほとんど知っているし、被災を受けた現場に立って現況を自分の目で見て実体験しているのである。この現実を前に、なぜもっと早く逃げる警告を出さなかったか、なぜもっと早く逃げなかったか、街路灯の施設が悪い、避難通路が確保されていない、近所と声を掛け合わないといけない、自衛隊員をもっと増やす必要がある、災害後に大きな国家予算を投入すべきだ、等々。公共電波を通じて聞こえてくる専門家の内容は全てこういう切り口であって、いつでも事後処理の解説に過ぎない。世界的な権威者だといわれる御仁の講演を聞いても、弟子の制作したコンピューターシミュレーションを見せられて、津波が押し寄せてこんなになるのだという。「それがどうしたの」「だからどうしろというの」「だから貴方は何ができるの」と、講演の後、虚しさが残るだけである。専門家や研究者は、日頃の研究成果や活動内容を、実際に自然災害が起こって被害が出ている現実に対して、解決に至る真意を突き止めて、善処することができるのか。災害には原因も原理もあるが、実際に起こっている災害による被害は、地球が放出しているエネルギーが原因であり、人間が造った自然を制御する設備がその自然の威力に勝てなかった為である。津波が起こることを想定して行政が防潮堤を造り、洪水被害を食い止めるために行政が河川堤防を造って被害防止に備えている。その責任構造物が責任を負えずに崩壊した、防ぎ切れなかったが故に大きな災害に結び付いたのだ。

 この繰り返される悲惨な現実に国民が理解したいことは、「これだけの大金を費やして構築した防災構造物がなぜ、どうして崩壊したのか」、その理由と責任の所在を突き止めたいのである。ここで自然災害のメカニズムをいくら云々しても始まらない、学者や研究者は、学問としてその原因やメカニズムを極めることが本分であり、あくまでも学問の範疇の世界である。現実に引き起こされた災害現場に登場しても、その内容は肝心の解決には至らず解説に過ぎない。マスメディアの責任も大きい、この度の自然の脅威は強かったと独占的に御用学者の見解を情報として流し、責任の所在は追及せず自然災害は恐ろしいと地球にその責任を負い被せる、本当に知りたい国民の真意は全く伝わってこない。

防災学者や研究者の真の役割

 学者や専門家の果たす役割と責任は、人間がコントロールできない自然の脅威を、科学的に予測し最新の科学技術でどこまで防ぐことができるかを見極めて提案することであり批判や解説することではない。気象学者や洪水学者は、最近の豪雨を「想定外」だとしきりに言う。年々降雨量が小さくなっている時期に大量の雨が降れば、それは「想定外」である。しかし毎年降雨量は増加し、極地を襲うなど降雨の気象変化は一昔前とは全く違っている。これを専門的に分析している専門家が「想定外」という言葉を連発するのは全く無責任であり恥ずかしいことで、命に関わる責任ある立場の者として許しがたい。専門家は、災害の起きた後で出て来ていくら解説をしても時間と費用の浪費に過ぎない。あるノーベル賞受賞学者が「地震学者は詐欺師だ」と言った。巨額の金を使って科学を駆使し多くの歳月を費やして、いかにも真実らしく想像を巡らせて解説しているが、現実にはほとんど適合せず公益に結び付いていない。自然災害に携わる学者や専門家は、有史以来繰り返されている自然災害を金と時間をいくらかけて研究しても、学問で終わらせては世の中の役には立たない。制御することのできない自然災害を学問として深淵に研究する者は、あくまでも学問の探求であり学者の領域であって、災害そのものの実態とは縁遠い立場にある。災害発生時は、現実を真正面から受止め、その対処方法を考えることであり、破損した構造物の内容を精査し、現場対応を主力とした「技術者集団」が緊急措置の方法を検討すべきであって、学者の出る幕ではない。国民は、災害の防止に直接役立つ者を求めているのである、単なる解説者で対応ばかり追って屁理屈をこねて解決には至らない現状に困惑しているのである。想定外であったという言い訳をして、早く避難指示を出すことだ、避難通路をつくっておくべきだ、災害復旧にもっと早く金を出してやれ、復旧のためにもっと自衛隊員を増やせ、等々、災害の後にメディアや公共放送が取り組む特別番組は、なぜ責任構造物が損壊したのか、全く災害の核心に触れることはない。責任構造物の壊れた科学的な理由を国民は求めているのである。

若者にとって魅力ある建設業界に

 前例主義を踏襲する古い枠組みを守り続けている建設業界の古い体質に、子供たちは既に一昔前に気付いている。土木学科を志望する学生が激減しているのがその表れである。戦後の荒廃した国土を立て直し世界に冠たる近代国家を構築した先人や今の土木の関係者の功績は大きいが、このままいつまでも同じことを続けていては、業界は化石になってしまう。業界に人が居ないと言われて久しいが、人が居ないのではない。人は魅力のある業界に流出しているのであって、要するに建設業は逃げられているから人がいないのである。全産業で科学技術の進歩発展は目覚ましい、今の仕事を魅力的な仕事に変身させる努力をし、また新しい魅力ある産業も常に創出されている。建設業界だけが古い考えで前例主義を踏襲し、いつまでも今まで通りの役所主導での運営を続けている。土を掘って水を替えて栗石を敷いて、その上に鉄筋を組み、型枠を組んでコンクリートを流し込むというのは、一昔前なら当たり前の土木工事のやり方であったが、そのような手順の仕事に若者は魅力を感じていない、工法が古いのである。筆者が目指す新生建設業界では、工場で製造された規格品「許容構造部材」の壁体を、自動運転のスマートな建設機械を用いて現場で設置していく、全く新しいシステム施工となる。こうした新しいやり方を若者は望んでいるのである。今までの古い体制で自然災害に打ち勝つことなどできる訳がない。国土崩壊は、自然災害からではなく、この古い考え方や組織の古さから引き起こされるのである。

■ 壁体をパネル化し、自動運転の機械で設置していく新しい建設工法

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